2014年04月01日

第二回「日本書を選定して読みあう会」アンケート投票(2012年5月31日締め切り)

投票のやりかた
・画面向かって左のサイドバーにある投票欄を使ってください。

・希望の本(書)をまずクリックで選んだ後、忘れずにその投票欄の下にある
「投票」というボタンを押してください!本(書)をクリックしただけでは
結果に反映されませんので気をつけてください!

・投票した結果は、「投票」ボタンの左にある「投票結果」をクリックすると
いつでも見ることができます。また投票した直後にも更新した結果を見ることができます。

・投票は一回1冊だけで、一度に複数選択はできませんが、投票した後、1時間待つとまた投票できるようになります。

・投票欄は今回は一つだけで、候補書80冊をすっきりと収めてあります。

投票候補の書について
・80冊を投票候補にします。

・2ヶ月ごとに順位を発表して、書の入れ替えを行います。

・2ヵ月ごとの順位はブログ記事で発表していきます。

・入れ替えの際には、前回の上位50位と、新たにリクエストのあった30冊を投票候補にします。

・つまり、上位50位に残らなかった書は次回投票候補として表示されません。

・この投票を2年継続して、日本書20冊を選定します。


対象となる書について
・一部、十七条憲法や大日本帝国憲法など、書店で売られている本とは違うものが入っていますが、このような重要な歴史的役割を果たした書も候補にします。

・マンガ・雑誌については現在リクエストを受け付けていませんが、別途行う予定です。

・リクエストは、ブログか、フェイスブックで投稿してください。その際、著者名、書名、できれば出版社もお書きください。猥褻な本や客観的に価値がないものはリクエストに入らないことがありますのでご了承ください。趣旨をよく読んでリクエストしてください。

・イベントの告知について
将来読みあう会のイベントを行う際はこのブログとフェイスブックにて告知を行います。
フェイスブックのグループ
http://www.facebook.com/#!/groups/243301072427620/

フェイスブック会員の方はぜひグループに参加ください。第一回の読みあう会は4月29日に新宿で行います。ぜひご参加ください。参加申し込みはnihonsho @gmail.comまでお送りください(@の前の空白を取って下さい。スパム防止対策です)。席に限りがあるので必ずご連絡をください。また各地域ファシリテーターと書評ライターを募集中です。

会は一年後NPO法人へと発展する予定です。

それでは、投票をよろしくお願いいたします。


第二回投票締切日
2012年5月31日
posted by 日本書を選定して読みあう会 at 00:45| Comment(0) | 告知・イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月28日

リクエスト受付欄

リクエストはこちらのコメント欄を使って記入してください。

書名 著者名 (できれば出版社名)

でお願いします。
posted by 日本書を選定して読みあう会 at 20:43| Comment(6) | 日本書アンケート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月26日

自己紹介用トピック

こちらのコメント欄を自己紹介に使ってください。

※コメント欄が何件続くか分かりませんが、
なくなったら場所を新しく作ります。
posted by 日本書を選定して読みあう会 at 13:41| Comment(1) | 日本書アンケート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月16日

【書評】Made in Japanわが体験的国際戦略[盛田昭夫・下村満子・E.M.ゴールドマン]



[ぜひ投票をお願いします!投票はブログページの左側の投票欄を使ってください。]


日本の製造業、特にエレクトロニクスの分野が危ないのではないかといろいろささやかれている。実際にシャープなどの危機が新聞をにぎわしている。しかし、その原因は何であるのか突き止めようとすると、「変に進化したガラパゴスなものを作りすぎたのだ」「韓国中国が低価格で同じ品質のものを作れるようになったからだ」などと、どうも的外れで本質を突いていないものが多いように思える。

もし、ソニーの創業者の一人である盛田昭夫氏が現役であればこういうのではないだろうか。

「どこかの市場で成功しようと思うなら、そこで会社を設立するだけでは不十分で、家族ともどもそこに引っ越して、実際にそこの生活を経験しなければ」と。(※注 原文では「どこか」、「そこ」は「アメリカ」になっている)

盛田氏が目指したのは、製品を作ることではなく、これまでにない生活様式を創造する事である。

全盛期の日本製品は小型で高性能なので、ともすれば、生活の「便利さ」を追求したものに見える。しかし、ソニーはそうではなかった。これまでに存在しないものが家庭に創造されて新しい生活様式が生まれ、その生活を営む人が街のいたるところに現れ、人間の生活が別の次元に移っていく。そういうことを考えるところから製品開発がスタートしている。

創業当時の資金難の時代からこの考えは脈々と受け継がれている。トランジスタラジオを考案するときは小型でワイシャツのポケットに入れられる物でなければいけないというところからスタートする。当時ラジオは真空管の大型のものしかなく、はっきり言って「家具」のようなものであった。それが乾電池とトランジスタという技術に支えられ、サラリーマンがポケットに入れて持ち運ぶ新たな生活様式を生み出せることになった。あくまでトランジスタはその生活様式を生み出すために必要なものであって、トランジスタを作ることが社の目標ではない。

ウォークマンもそうである。当時、ラジカセを持ち歩いて音楽をかけながら歩いている若者を欧米や東京で見た盛田氏が、そんなに音楽から一秒でも離れていたくないのだったら、ポケットに入るヘッドフォンで聞けるカセットを作ろう、ととんとん拍子で作ったのがウォークマンだ。最初に音楽を身につけて街を歩くという生活様式を着想して、そこからたまたまサイズが小さくなったに過ぎない。

ベータマックスと呼ばれる家庭用ビデオデッキも、放送局で使われているビデオ再生機をみて、これが家にあったら面白いのではないか、とビデオデッキを使って自分たちの撮った姿をみてお互い談笑している家族のイメージをまず持って、そこから着手する。

技術や特許や、ましてや会社の経営や資金繰りは、その生活様式の創造に必要だから力を入れるのであって、それが主目的で会社をやっているわけではない。ましてや、今期の会計書類の数字が多少よくないことなどは、会社が長期かけて実現しようとしている偉大なる創造に比べれば厳しく追求するようなことではない。

このような経営を行ったのは彼の育った環境が大きく影響している。父親は代々酒造業に携わり、母親はクラシック音楽を愛好し、昭夫少年を含む子ども達に最高の声楽、器楽を聞かせていた。家にはテニスコートがあり、父は当時は珍しいフォード車に乗っていた。それはまさに盛田家のスタイル、生活様式であった。昭夫少年がラジオの製作に勝手に憑り付かれていっても家族は寛大であった。と同時に、父は昭夫少年を重役会議などに呼び出し脇に座らせ、たくさんの人を使うとはどういうことか、経営とはどういうことかなども仕込んでいた。

戦後、彼の家はGHQの戦後政策の一つである農地改革で工場と家以外は失ってしまったが、兄弟全員無事に家に戻ってくることができて家族は大いに喜んだ。彼にとっては家が持っている生活様式、あるいは家の歴史に対して家族が誇らしく思えるということが一番大切だったのに違いない。

そして、戦後の新しい時代において、そういう家に対して誇りや愛情や懐かしさを持たせることができるような製品を創出していった。

今、日本のエレクトロニクスが独創的な製品を作れない隙をついてiPhoneやiPadが世界を席巻しているように見える。これらの製品のイメージを思い浮かべるとき、製品そのものではなくて、それを使っている人を含めた風景、例えば、電車内でこれらを使って経済ニュースを読んでいるビジネスマンとか、カフェですいすいページを手繰っている普段着の若者とかを思い出すだろう。これが生活様式、スタイルである。アップル社は技術を生み出したのではなく、スタイルを創出したのである。盛田昭夫氏が現役であった頃のソニーが第一に行っていたことを忠実に繰り返したに過ぎない。

日本が苦戦している原因は、モノを作っている日本国民が「自分は日本人であり・・・自分の日本的な部分を評価する一方で、自分が世界に適合していかねばならず、その逆は成立しないことを理解する」(127頁)という盛田氏の哲学が忘れ去られているところにある。世界の人がどのような次の生活様式を望んでいるかを考えずに世界でモノが売れるはずはないのである。そして世界の人が望む生活様式を知るためには自分がその世界で生活をして体験してみないといけないのである。この本の副題が「わが体験的国際戦略」となっているのはそういう意味である。

ところが日本の現状はどうだろう。海外に留学したいという日本の子弟が激減しているというニュースもよく聞くし、日経新聞5月16日号に「退職貧乏父さん」という記事が掲載されているが、子どもを留学させると退職した親が貧乏になるからやめようという意味に取れる意見が堂々と展開されている。このような現状では、世界の人が欲する生活様式を生み出せる次の世代が生まれることはもうないのかもしれない。

今後日本の製造業が生き残れるかは、経理上生き残れるかどうかではなく、スタイルを創造できるかどうか、まさにこの一点にかかっている。

経営ではなく、創造に興味がある読者に勧めたい一冊。

■■
今日の書評はいかがでしたか。

盛田昭夫・下村満子・E.M.ゴールドマンの『Made in Japanわが体験的国際戦略』は日本書候補になっています。

ぜひ投票をお願いします!
投票はブログページの左側の投票欄を使ってください。もしブログページから投票しづらければ、以下からもできます。

http://vote1.fc2.com/poll.php?mode=result&uid=13737516&no=3

投票は一時間待つと何度でもできますので、よろしくお願いします。

■■
「読もうよ!日本書」街での読書会の予定

次回は6月上旬に都内で行う予定です。ぜひご参加ください。


■■フリーペーパー発行予定

会ではフリーペーパーを発行する予定です。また「母から娘へ伝えたいレシピ」という題でコラムを書いてくれる料理人の方を探しています。ご興味のある方は会までご連絡ください。

■■
今日紹介した本は既に廃刊になっているようです。このような良書が廃刊になっている現状を嘆いております。将来、会では読書会などに使うため、日本書の寄贈をお願いする活動をしようと考えております。


posted by 日本書を選定して読みあう会 at 23:36| Comment(0) | 日本書候補書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月09日

【書評】八甲田山死の彷徨[新田次郎]




人は信じるもののために行動している。信じてもいないもののために労力を費やしたり、ましてや苦痛をともなう作業を長時間続けることはできない。

ここまではよく自己啓発書などで言われそうなことではある。しかし、その信じるものをどうやって作り上げるかとなると、途端にあやふやになる。ある者はその信じるものを自分の長時間におよぶ葛藤や探求から得る。ある者は偶然や啓示、閃きから得る。ある者は人に強制されたり、命令をされたりしてきたことを自分の信じるべきものと思い込む。そしてあるものは階級や出自など生まれつき自分ではどうしようもないことが自分の信じるべきものであると思い込む。

この新田次郎の『八甲田山死の彷徨』では、どうやって信じるものを作り上げたかが生死の分かれ目になっている。信じるもののために誰もが行動をする。しかし、それをどうやって作り上げたか、そこが問題となっているのだ。

この小説は映画にもなっているので、これから映画を見てみたいという方のためにあらすじはあまり書けないが、明治三十五年、仮にロシア軍が青森に上陸してきて国道や鉄道が閉鎖された場合、極寒の八甲田山を抜ける冬のルートを通って、市街地を奪還することができるかどうかを知るために演習を行うことになった。

この演習に抜擢されたのが、平民出身の神田大尉が率いることになる青森第五連隊と士族出身の徳島大尉が率いることになる弘前三十一連隊で、難所八甲田山を通り抜ける同一コースを反対側からそれぞれがスタートすることになる。

二人とも信じるもののために念入りに調査をし、予行演習も行い経験も積み、恐ろしい牙を剥く厳冬の八甲田山で出会うだろう困難に対する覚悟を決めたのであるが、なぜそのような行軍をするのか、その信じるものがあまりにも違いすぎた。

そしてそのことが大きな違いとなった。

明治時代の列強がありとあらゆる面でつばぜり合いをしているこの時代に、もっとも信じるべきものは科学的な検証能力と、技能を持つ人間を信任して責任を委譲する能力だった。すでに精神論であるとか、生まれ着いての階級であるとか、家の名誉や出世に対する執着とか、そういうものは役に立たない時代になっていた。

それでも、まだ人間社会の中ではそういったものが必要だったのかもしれない。しかし、身を容赦なく切り裂いていく吹雪と視界も声もわずかに残った体温をも容赦なく奪っていく漆黒の闇に対しては役に立たなかった。

どのようにすれば生き残り、行軍を損害少なく続けられるのかを想定する。そして刻々と変わり逝く状況に対応するよう、行軍中に観察を続け、良いものは直ちに取り入れる。自分よりも知識と経験のある者には出自など関係なく、信任し、権能を持たせる。そして自分の信じるものが実現できているかを絶えず検証しながら手を加えていく。そう決めた者だけが生き残る。

具体的な行動はこの信念を持つことにより初めて生まれる。どのくらいの人数を連れて行くのか、どの県の出身者で固めるのか、極寒では凍りつくコンパスや握り飯、飲み水をいかに暖めておくか、足が凍傷にならないためには何をすればいいのか、雪濠はどう掘ればよいのか、人に任せる際どのような言葉と態度を使えばいいのか。そういった一つ一つの行動が生きたのは、最初に持った信念が間違っていなかったからである。

著者が言うように勝利を勝ち得た側というのは、意外にも研究されないことが多い。メディアは負けた側の敗因を執拗にセンセーショナルに書きたて、やがて事件自体が飽きられ人々から忘れ去られていく。勝利の要因は意外にも淡々としていて、ましてやその信念などはつまらなく思えるもので書くのが難しいことなのかもしれない。

ビジネスパーソンへの推薦図書として紹介されることの多いこの一冊も、通常はなぜ負けたのか敗因を分析するために読まれることが多いが、しかし読者にはどのようにして勝利を得たかを読み取ってもらいたい一冊。


■■
今日の書評はいかがでしたか。

新田次郎の『八甲田山死の彷徨』は日本書候補になっています。投票をお願いします。投票はブログページの左側の投票欄を使ってください。もしブログページから投票しづらければ、以下からもできます。

http://vote1.fc2.com/poll.php?mode=result&uid=13737516&no=3

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「読もうよ!日本書」街での読書会の予定

次回は6月上旬に都内で行う予定です。ぜひご参加ください。


■■フリーペーパー発行予定

会ではフリーペーパーを発行する予定です。また「母から娘へ伝えたいレシピ」という題でコラムを書いてくれる料理人の方を探しています。ご興味のある方は会までご連絡ください。
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2012年05月02日

【書評】ゴルフの神髄新編もっと深く、もっと楽しく[中部銀次郎]




通常、勝つか負けるかは一瞬のことで、勝つためにはどうしても無理をしたり、その瞬間に一か八かの勝負に出る。そして通常、映画やフィクションの世界ではそういう強い信念を持って一か八かの勝負に出る者が勝つ。さらには正義の側に立つ者であればなおいっそう勝ち良い。石橋を叩いて渡る臆病なヒーローなどというのには未だかつて映画の中で出会ったことがない。

しかし、現実の勝負事は、そういう一か八かの勝負に出ればいつも良い結果を出すわけではない。むしろ一か八かというくらいなのだから、今要求されていることは、平常の練習時にやってみると失敗の確率が8割で、成功する確率が2割ぐらいのことかもしれない。それなのに、いざ勝負を決める緊迫した状況で、あなたはこの2割を信じて、勝負に出るだろうか?

アマチュアゴルファー最強とうたわれた中部銀次郎はこの場合、勝負に出ない。なぜなら、普段から成功する確率が二割しかないということは、緊張して呼吸も浅くなって冷静さを欠いた状況であればもっと確立が落ち、ほぼ成功する見込みがないからである。

それよりも、もしゴルフで言えば一打多く打つことでもし安全にホールを上がれる率が高まるのであれば、そちらを取る。ゴルフは18ホールあるのだから、ここで危険な勝負に出て失敗し、その後のホールに心理的悪影響を及ぼすより、今のピンチを無難に脱し、次のホールをすっきりした気持ちで回れば、今度は一打少なく打てるかもしれない。

なあんだ、つまらない。そんな声が聞こえそうである。確かに面白みはない。スリルもない。しかし、これこそが中部銀次郎が連勝を続け、プロゴルファーをも恐れさせていた理由である。

一打多く打ってより安全な場所にボールを進める。一見意気地のないような行動だ。弱々しささえ感じる。だが、中部はこれこそがまさに「勇気」だと信じている。確率のない暴挙に出てさらに自分を目茶目茶な状況に置くのは勇気ではない。自分の力量を常に知っておいて、状況に照らし合わせて、いけるならいく、いけないならいかない、その判断をし、判断に従って行動ができることこそが真の勇気である。

考えてみれば、スポーツを見るわれわれは選手の一瞬の輝きだけを期待している。クライマックスだけをみたいと思っている。しかし、スポーツを行う側としては競技は生きることの一部分であって、かなりの長い期間同じレベルの状態を維持できるよう厳しい日課を自分に課さなければならない。

高いレベルを維持するにはバラツキや浮き沈みをできる限りなくして技術のレベルを平坦にし、それでいて高いところをキープしなければならない。そのためには自分を良く知り、確率を使ってできること、できないことを冷静に把握しておく。ゴルフはグループで回る競技だから他のメンバーが冷静さを乱そうと悪辣なことをすることもあるが、見つめるのはひたすらコースと自分だけにする。非常事態も含めてありうるシナリオを想定して、何打に割るか計画を立てておく。地味で人に話してもほとんど意味のないようなことであるが、これらの作業の積み重ねが自分を勝利に導いていく。

これは人生でも同じである。周りには多くの成功物語が溢れている。中には働かずにいかに儲けるかとかいかに一発大逆転の運を身につけるか、などと指南をしたがる者もいる。

しかし実際は、自分を冷徹に見て、できることとできないことを確率で判断し、危ない状態になったら、一歩増えてもいいから、一手余計に必要になってもいいから、自分の自信のある地点に戻る。そこから諦めずにまたスタートすればその先で距離を縮めることもできる。気づいてくれる人は少ないかもしれない。拍手喝采を贈る人も少ないかもしれない。しかし間違いなくトータルでは人生の勝者なのである。

本当にかっこいい人生とはどういうことなのかを教えてくれる一冊。


(文責 菅井英明)

☆☆☆☆

□□投票をお願いします!
第二回の日本書投票が始まっています。このHPの左のコラムを使って投票してください。
今日の中部銀次郎、「ゴルフの神髄新編もっと深く、もっと楽しく」も候補になっています。


□□「読もうよ!日本書」街での読書会の予定

4月29日に第一回の「読もうよ!日本書」街での読書会を都内で行いました。

次回は6月上旬に都内で行う予定です。ぜひご参加ください。



□□フリーペーパー発行予定

フリーペーパーを発行する予定です。また「母から娘へ伝えたいレシピ」という題でコラムを書いてくれる料理人の方を探しています。ご興味のある方は会までご連絡ください。

posted by 日本書を選定して読みあう会 at 22:46| Comment(0) | 日本書候補書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月25日

【書評】日本の祝祭日「国民の祝日」の来歴を解き明かす[所功]



※この書評では1999年版のものを元にしています。

毎日が同じように続いていくことに疑問を持たない人が多い。

上り調子の毎日であればそのように特に日々の変化を意識する必要はない。しかし、これが下り気味の毎日であればどこかで休みを入れて、休むことで心と体に変化・変転を起こしてそこからの日々が上り調子になって欲しいと願うのは浅ましいことではなく、人として自然な気持ちだろう。

人間は長い社会生活の中で日々の暮らしに対して緻密な観察をくり返し、一年の間に人にはだんだん疲れと汚れが溜まっていくので、どこかに区切りを入れてそれを禊で祓い、次の日からは、気分も体調も一新して高揚した気分で新しい日々を迎えるという習慣を身につけた。

その区切りを入れて、変化・変転を起こす日が、お祭りを行う日であり、穢れを払う宗教的行事と結びついて、祭日となった。

今では国民の祝日は家族奉公や身体を休める日くらいにしか思われていないが、その使い方は完全に間違っているわけではないのだが、なぜそのような休みの日があるのか、そして特定の祝日と言われている日に本来は何をすればよいのか、ということを休みのまさにその日に意識する人はあまりいないのではないだろうか。

所功の「日本の祝祭日」は現在日本の「国民の祝日」とされているそれぞれの日が実はどういう意味を持っていて、どのような歴史と結びついて成立したのかを丁寧に教えてくれる。

まずそもそも祝日と祭日は意味が違っていて、祝日は国家が定めた社会的な意義を持つ日で、祭日は古来より日本で行われてきた祭りを行う日であるという厳密な区分があるところで、ひどく興味を持つ。

というのも、今の日本では「国民の祝日に関する法律」という法律で休みの日が定められているが、これが国民の「祝祭日」に関する法律ではないところから、今の日本には「祭日」というものがないのである。

驚愕の事実であるが、これは戦後日本が占領されて、GHQが、神道に由来する祭日を国民感情を無視して廃止しようとしたためである。それでも占領軍統治下の日本の立法家は、明治時代に整備された国民の「祝祭日」を可能な限りとどめようと、休みの日の名前を新憲法の理念に照らし合わせておかしくないように変えて残す努力をした。明治天皇の御誕生になった明治節は11月3日であるが、「文化の日」という名前で残すことができた。祭日としての、つまり農業の行事としての性格が一番強い春分の日や秋分の日は欧米にも似た考えがあることで無難に残った。

年配の方しかもはや覚えていないのが、2月11日の紀元節、つまり神話に基づく日本が建国された日をめぐる戦後の騒動である。もともと明治6年に神武天皇が即位されたのは2月11日であろうという調査に基づいて定められた日であるが、GHQは断固、この日を残すことに反対する。

しかし、国民に対するアンケート調査などから紀元節を残すことを大多数の国民が望んでいることから、保留の形で紀元節の無いままで戦後の祝日が決められていく。

講和条約後、日本が独立しても、この紀元節に対して反対する政党が多く、なんと昭和41年まで何度も国会で審議されては審議未了、また再提出を繰り返した。国民が建国の日を強く要望していることから、その日を持たないほうが良いという政党はなかったが、自由民主党は本来の2月11日を、戦後に新しい国家ができたとする社会党は現行憲法が施行された5月3日を、公明党は講和条約発行の4月28日を、革命が好きな共産党は革命が起きる日を主張した。

結局、国民の古からの美しい風習を育てるのが祝日法の趣旨だということで、紛糾の末、2月11日になるのだが、これほど不毛で無益で長い政争もなかったのではないだろうか。

このようにして、私たちは、今、何気なく祝日を過ごしているわけだが、戦後の日本国民が直面した自分たちの祝祭日ですら危うく失うところであったことや、苦心して守り通した大切な祝祭日の価値、そしてそこで行うべき行動を思い出してみる必要があるのではないだろうか。

ゴールデンウィークが迫っている今だからこそ読んでみたい一冊。なお、西洋暦は元々10か月分しか名前がなかったなどのトリビアも書かれていて面白い。

(文責 菅井英明)
posted by 日本書を選定して読みあう会 at 23:58| Comment(0) | 日本書候補書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月18日

【書評】君ならできる[小出義雄]




「感応」とは仏の人に対する働きかけとそれを受け止める人の心をいう(『デジタル大辞源』)のだが、仏ですら人を意のままに動かすのは難しい。ましてや人が他人を動かそうとするなどというのは至難の業である。至難の業であるからこそ、人を動かす系のビジネス書が多く本屋に溢れているのだが、どうも自分の私利のために人を便利に使う術のようなことを説くものが多く、とても「感応」と呼べる状態からは程遠いものが多い。

その点、有森裕子や高橋尚子ら数々の名女性マラソンランナーを育てた小出義雄監督は違う。彼女達と小出監督との間には確かに「感応」と呼べる作用がある。

高橋尚子がシドニーで優勝する直前までのことが書かれているこの本によれば、高橋はもともとは、今TVで見るような自信にあふれた笑顔を見せたりするランナーではなかった。しかし毎日小出監督と過ごすうちに次第次第にまさに小出監督の信じる方向へ「感応」の作用が起こり始める。

足が他の女性より長く筋肉が強い高橋にはとにかく走らせ続けて、普通なら調整と称してペースを落とすような日も走らせる。メディアの取材をうるさがる彼女にわざわざメディアが来てくれることに感謝しなさい、絶対につらい顔やふてくされた顔を見せないようにと言う。高橋は4ミリ左右の足の長さが違うために特別に作らせた40足の靴から二人で丁寧に一番合う一足を選ぶ。小出監督と過ごす一秒一秒がだんだん高橋を感応に導き、やがて小出監督がイメージで思い描く最速でぶっちぎりに速いランナーに高橋が育っていく。

ただ一緒に漫然と過ごせばこういう感応が起きるわけではない。もちろん食事のメニューから女性固有の嫉妬心や落ち込みやすさなどへの細かい配慮も大切なことだが、選手が危機にある時に本当に選手のためになる難しい決断を下し、それを選手に納得させる、その時こそがまさに大事な瞬間である。

手首を骨折したり食中毒になったり、靭帯を痛めたり、高橋にも競技前にベストでないときは何度もあった。選手にとっても監督にとっても厳しくつらいことだが、競技に出るのを諦めなければならない決断をしなければいけない。そんなときにこそまさに「感応」が起こり、二人は次の来るべきステージへと向かって、より強く、より速くなっていく。

小出監督はさらにおそらく高橋がまったく知らないところで「感応」を起こすための行動をあれこれする。彼は合理的であるだけでなく、すがれるものがあれば何でもすがるし、運というものを非常に強く信じている。高橋尚子という名前自体が良い名前で世界を取れると固く信じている。有名野球選手が通っているという観音様がご利益があると聞けば飛んでいく。そうやって監督自身の中に呼び寄せた強い信念が、強い自信が、揺るがない思いが高橋に感応していく。そして彼女は迷うことなくぶっちぎりで前へと飛び出していく。

うすっぺらな言葉や態度や、まして褒めだとか自主性に任せるだとかではない。そんなものはこの二人の間には存在していない。

「一番でなければいけない」この言葉が自分を奮い立たせ、人生を前向きに走らせてくれる。走ることにすべてをかけて悔いがないと二人が信じるとき、まるで神々の意志に叶ったかのように二人を行くべきところへ導いてくれる。

人を導くとはどういうことか迷っている方にはぜひ読んで欲しい一冊。

(文責 菅井英明)

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2012年04月11日

【書評】古典落語[輿津要(編)]



現代の日本には階級はないということになっているが、「階級」というラベルをひとまず横に置いておいて、階級を決定付ける要素は何だろうかと考えてみると、それらは収入や考え方や行動の仕方や教養、更に言葉使いなどの違いである。そしてそれらが異なっている人間を、分類して集めてみると、「階級」のようなものができあがるということだろう。

そう考えると、現代日本には確かに「階級」というラベル自体はもう無いが、違う社会グループが厳然と存在しているのは間違いない。しかも「階級」はないことになっているのだから、自分と人との間に何か違いがあると、それは個人の違いということになってしまう。何か問題が生じると階級がないせいで、個人と個人がいきなり真剣を携えて対峙するような状況になる。

これが「階級」というラベルが存在している社会では、まず階級がクッションになって、お互いを直接個人攻撃できなくなる。違うグループに属する人間同士がどうしても接触しなければならないときは、そもそも住む世界が違うのだから、まず言葉と誠意を尽くしてどこに誤解や問題があるのか、じっくりお互い様子を見ながら確認しあっていく作業が必要になる。

落語の世界に出てくる典型的な人物は町人、大家、殿様、他の侍、たまに学者先生だ。落語の世界は、これらの階級に属する人物が、それぞれ異なる教養や考え方や行動を持っていることを前提に成立している。そしてその違いを埋めていくためお互いが、言葉を駆使して、理解しあおうとするなかで起きるドタバタ劇が落語である

おもしろいのは、町人が無学なのはいつもそうなのだが、この無学というのが馬鹿ということではなく、理解できる世界が他の階級に属する人間とは全然違うという意味である。

理解できる世界が異なっているのは、実は他の階級に属する者もそうである。さんまを見たことも食べたこともない殿様が、遊びに出かけた郊外で偶然嗅いださんまの香ばしい匂いに引き寄せられ、真顔で部下に「これは一体何という魚だ」と尋ねたり、町でひとかどの学者先生と思われている人物が、百人一種の「ちはやふる神代もきかず竜田川・・・」という歌の意味は何ですかい、と八つぁんに聞かれて自分も意味を知らなかったのに、知らなかったと認めるのは悔しいので、勝手な解釈を即興で作ってみたりと、無学はどの階級にもいたる所に存在していて、話が通じないのはお互い様なのである。

そうやってお互いが無学ではあっても無学なりに、相手に一生懸命聞きだす中で、珍回答や珍解釈が生まれ当時の江戸っ子の町人は何事をするにも気が早いから、とんでもない行動を始めてはドタバタが繰り返される・・・というのが落語の世界である。

しかし、よく考えてみると、このような正直な世界は現代人にとってはうらやましいのではないだろうか。

現代はまず、階級は無いから、当然、自分が知っていることは他人も知っているだろうと思ってしまう。自分が感じる通りに相手も感じるだろうと思ってしまっている。思っているから特に時間をかけて聞き出したり、理解したりしようとしない。そして相手が自分と違うことが分かると、失望したり、相手を軽蔑したり、あるいは完全に無視したりする。自分と違う存在がいることに寛容でない。背負わされる傷も妙に深い。自分と違う人間とどう付き合って良いか、何を話せばいいのか分からないのが現代人の懊悩なのだ。

落語の世界では、長屋、町内、江戸、そして日本と人々の心がつながっている。お互いが違うということも知っている。違うからこそ人と話すのが楽しい。多少悪口やいやみを言われても、相手と話してわかりあうことが楽しい。一緒にドタバタ行動ができれば短い人生はなお楽しい。

この『古典落語』に収められた話は「三方一両損」や「寿限無」といった落語を特に意識しなかった人も知っている話や、「目黒のさんま」「崇徳院」といったほのぼのとした流れの後にクスッと笑えるオチのある伝統的な話、それに町民が侍の首を撥ねてしまうとんでもないラディカルな展開の「たがや」などが収録されている。

階級があるからこそ、かえって大らかに、人が人として認め合えた時代があった。

いずれの話も今の人間から見ると、一種の憧れの世界を映し出している。

(文責)菅井英明

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都内で読書会を開催します。詳しくはブログ記事をご覧ください。
http://nihonsho.seesaa.net/article/261872064.html


第二回投票がスタートしています。画面左の投票フォームを使って
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2012年04月04日

【書評】人民は弱し 官吏は強し



世の中には二種類の人間がいる。「成功しない人があるとすれば、それは努力と思考を怠るからである」ということを信じてその通り実行する人間と、そうでない人間だ。一見すると最初の人間のほうが当然、努力と思考の対価として社会で相当の地位と財産を享受しているはずなのだが、事実はそうではない。

そもそもこの訓戒を実行しない人間とはどんな人間なのか正確に言い表すのは難しい。「努力と思考を怠る人は成功しない」ということになるのだろうが、問題は、現実の世界では成功しなくても別にいいではないかと考える人が多数で、しかもそれで世の中は案外普通に動いてしまっている。

また、ここが大事だが、何をもって成功とするかは人それぞれだ。他の人がみればたいしたことではなくても自分としては十分がんばって努力して得たものなのだからそれを毎日守っていればいいじゃないか、余計な邪魔さえ入らなければそれが人生の成功だと思うのが、悲しいことだが、普通の人間の性質であろう。

となると訓戒を常識的に理解したときの「努力と思考を怠らなければ成功する」人は少数で、もしそれで成功すると、その人は世間と違う変わった人ということになってしまう。そして妬まれたり恨まれたりする対象となる。

SF作家の星新一の父親、星一(はじめ)氏はアメリカで12年の青春時代を過ごし、日本に戻って留学時代の友人と製薬会社を作った。この星一氏は後に星薬科大学を東京に設立した人物でもあるのだが、その星一氏の人生を描いた『人民は弱し 官吏は強し』の中で長男である星新一が言いたかったことは、この二種類の人間のそれぞれが訓戒が示す通りの生き方を貫くことは非常に難しいことであり、本当の成功とは人間の醜いどろどろの部分を無視しては手に入らないということを言いたかったのだろう。

星一氏は快活で話好きで楽天的だが、論理にめっぽう強くディベートがうまい。そして賄賂をばらまいたり、料亭に役人を招待することが大嫌いだった彼は、儲けた金は全部株主への還元や薬の販売店の啓蒙や、最新の工場設備の導入に使ってしまう。まわりはもう少し、役人や同業者に鼻薬をかがせてもいいのではないかと思うが、星のまっすぐな性格を知ると言い出せない。

彼は、今で言う企業コンプライアンスを関係者に滔滔と説き、聞くものを感化させ、まさに努力と考えることを第一とする企業文化と企業集団を生み出していく。彼は親友の野口英世の紹介で晩年のトーマス・エジソンとアメリカで会う機会を得て、上に出てきた訓戒をもらい、社長室の壁にたてかけて、それを戒めとしていた。

しかし、製薬会社が軌道に乗った頃から、ふとした弾みで、衛生省の役人の機嫌を損ねる。そして、順風満帆に見えた成功の日々の中、彼の楽天的な性格が災いし、毎日の中で起きた、人との小さな軋轢を見逃してしまう。それらは役人に対してだけでなく同業者だったり、自分の恩師である後藤新平の政敵だったりする。星はただ、まっすぐで天真爛漫で良いと思ったことを口にしていただけだ。しかし、それらが積もり積もって、反星一といった勢力を同業者、政府、そして役人の間で作ってしまう。

そこから政府、行政、業界が一体となって執拗で陰湿な星と星の会社へのいじめ、星は「虐待」と呼んでいるいるが、徹底的に開始される。こんな計画が進んでいたとは、まったく考えもしないうちにどんどん奈落の底へと突き落とされる。

努力と思考があれば成功すると考える人間を得体の知れない別種の人間がいたぶり殴りつける。その殴りつけ方が官僚や政治家のやることだからとてもえげつない。

反星派は、考えず努力しない人間だったのだろうか?いや、彼らはいかにして星と星の会社を追い詰めるか用意周到考え抜いて、蛇のように潜伏し、チャンスが来ると弱る人間に食らいつく狼のように星から大切なものを次々とむしりとる。

反星派も努力し考える人たちなのだ。ではエジソンが星に渡した訓戒が間違っていたのか。エジソンは最初に「利益よりも、まず公共のことを考えなければ物事はうまく運ばない」と言った。しかし大事なことを言い忘れたのだ。「その利益とは何か、公共とは何か、人によって理解が違うからよく注意しなさい」と。

純粋に病に苦しむ人たちに良薬を与える、そのための安価で質の良い薬品を大量生産する。それが星の公共への奉仕だった。しかし、政治家には政治家の、行政には行政の、他の製薬会社には他の製薬会社の公共があった。彼らは彼らなりの公共のため自分らの利益を最大にしようと努力し、思考した。

その結果、悲しいことに常識で考えれば一番人民のために尽くした星が身包み剥がされた。

唯一の救いは、星が順調だった頃、郷里の福島で議員選に請われて出馬し、村民らに政治とは何か、民権とは何か、企業とは何かなどを説いて啓蒙したり、星の会社関係者にコンプライアンスを説いたり、と、たくさんの人々を啓蒙し、目を開かせる能力が星にはあったことだ。それが結局星薬科大学を作ったりすることに後年つながっていく。

※また本ではこのときの選挙では落ちたとなっているが、実際は当選しているようで、その後も何度か星一は議員になっている。本と実話のずれはもし星新一ファンがいたらコメント欄ででもご教示いただけるとありがたい)。

何が公共なのか、何が正義なのか、何が成功なのか。これらに答えを出すのは容易ではない。

しかし、願わくば星のような生き方が、素直に認められていく社会が現出するよう祈りたいものである。

(文責 菅井英明)

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posted by 日本書を選定して読みあう会 at 22:08| Comment(0) | 日本書候補書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする